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人生朝露

人生朝露

小泉八雲と荘子。

ほいほい。

悪かったわね!
荘子です。

前回の続きなんですが、説明しやすい人が見つかったので、その人で。

参照:当ブログ 荘子と進化論 その40。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201002140000/

というわけで、次なる荘子読みは・・

ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(Lafcadio Hearn 1850~1904)。
ラフカディオ・ハーン、小泉八雲(Lafcadio Hearn 1850~1904)であります。

参照:Wikipedia 小泉八雲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E5%85%AB%E9%9B%B2

小泉八雲の一面については、司馬さんにお願いいたします。

-------(引用初め)-------
アイルランド人小泉八雲も、イェイツと同様、幽霊、妖怪、妖精が地上の現実よりもすきであった。イェイツはその“好き”を古ケルトの精神に結びつけ、大きくアイルランドの民族精神に役立たせようとしたが、日本にやってきた八雲(以下ハーンと呼ぶ)の場合、その“好き”は八百万の妖精の棲む日本に帰化するまでに徹底していた。
 ハーンは、イェイツよりも十五年早くうまれた。
 父はアイルランド人ながら、ギリシアに駐屯していた英国連隊の軍医だった。母はギリシア人で、この両親はハーンが幼いころ離別した。
 幼かったハーンは、父方の大叔母に預けられた。
 ハーンがダブリンにいたのは、諸伝記によれば四歳から十三歳ころまでのことらしい。幼児期の精神形成としては、十二分に密度の濃い歳月だった。
 ダブリンにおける幼少のころのハーンは極端に臆病で、夢の中や、時には昼でさえ、オバケのようなものを見た。その時期のその恐怖について、彼は「夢魔の感触」に書いている。

 おそらく、幽霊の恐怖の起こりは、幽霊を信じることとひとしく、やはり夢からはじまったものなのだろう。とにかく、特異な恐怖である。これほど強い恐怖もないが、同時にまた、これほど正体の分からない恐怖もない(『小泉八雲作品集』第九巻。平井呈一訳、恒文社)

と、ハーンは言う。
 この少年が、神経が透けて見えるほどに物事に過敏だったことがわかるし、想像力の質と量が異常だったこともわかるが、ひょっとすると、民族的遺伝ということも考えられないかと思ってしまう。(中略)彼の最初の日本体験が、神々の国である出雲だったということは、意義ふかい。山河に精霊を感じるケルト的な汎神教の世界と八百万の神々が集う出雲の国つ神の世界とを、ハーンはかさねあわせて感じたのにちがいない。
--------(引用終わり)------------
以上、『街道をゆく〈30〉愛蘭土紀行』より抜粋。

妖精と少女。 
小泉八雲って人は、キリスト教の匂いが極端に少なくて日本人に近いんです。アイルランドの場合、聖パトリックというえらい聖職者がキリスト教と、土着の信仰の融和を図りまして、ヨーロッパの古い信仰が残ったんです。簡単にいうと、ハーンは、ハリーポッターの側にいるんですよ。

ハリー・ポッターと賢者の石。

「アバター」もそうですけど、汎神論的であるというだけで、一神教徒は執拗に攻撃します。「ハリー・ポッター」の場合は、原理主義者に禁書扱いになりまして、当然、お得意の焚書の対象です(笑)。特にひどいのがアメリカとオーストラリアです。はいはい、人権、人権(笑)。

参照:現代の魔女狩り? 米国で「問題本リスト」に載る『ハリー・ポッター』
http://wiredvision.jp/archives/200111/2001111602.html

ハリーに揺れる米キリスト教原理主義 ハリー・ポッターへの反発が映す米国政治の構図 = NBonline
http://www.asyura2.com/07/war94/msg/286.html

参照:当ブログ 荘子と進化論 その38。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201002010000/

では、
蝶の幻想 小泉八雲著
「蟲の文学」の増補版、その名も「蝶の幻想」から抜粋いたします。日本の文芸作品や伝承に生き生きと描かれている、蝶、蚕、蚊、蝿、蝉、蟻、蜘蛛などの多様な生物をテーマにして考察しております。小泉八雲も手塚治虫と同じで虫好きです(笑)。

-----(引用初め)------
三千年、四千年の昔にいかなる英詩よりも完成度の高い、はるかに美しい詩がギリシャで書かれている。日本の古代文学には虫を詠んだ詩歌は幾千と見出されるはずだ。この美しい主題に対する西洋諸国の、近代に於ける顕著な沈黙の意味はなんであるか。
 教義としてのキリスト教こそこの長い沈黙を守ってきた原因であると、わたくしは信じている。初期の教会の見解では、霊も、魂も、またいかなる類の知性も、人間以外の他の生物ではその存在は否定されていた。あらゆる動物はオートマン(自動機械、ロボット)だと考えられてきた。(中略)動物の霊とか、動物の精神について語ることは、教会が絶大な権力を握っていた中世では、すこぶる危険なことであったのであろう。当時悪魔はある一定の時期には動物に姿を変えるものと考えられていたから、そのようなことを口にすれば魔法使いの罪名を着せられ、身の危険を招くことにも実際なったのであろう。動物の心を話題にすることは、キリスト教の教義にとっては、教会が教えている人間の魂の存在に疑惑を投げかけることにもなったであろう。
---------(引用終わり)------

彼もそのことに気付いていますね。

-------(以下引用)--------
ところで、中国には蝶に関した不思議な物語--妖怪奇談--がじつに多い。わたくしはそれらを知りたい。しかし、私の力では、中国の文字を理解することはとうてい不可能で、日本語すらも生涯満足に読むことはかなわないであろう。それでも今わたくしが非常な困難を味わいながらも、何とかして英文を翻訳しようとしているわずかな日本の詩歌のなかにも、随所に蝶の物語が取り入れられている。そのためにわたくしは、あのなぶりものにされたタンタラスの苦しみにさいなまれているのである。・・・・もとよりのこと、わたくしのような無神論者のところには、かりにも訪ねてきてくれる天女のなどいるはずもないが。
 (中略)それからまた、日本では荘周の名で知られている、かの有名な中国の学者が、自分が蝶になった夢を見て、その夢のなかで、蝶の持つあらゆる感覚を経験したという、その体験についてもっと詳しく知りたいと思う。荘周の心は確かに蝶の姿になってさまよい歩いたのである。それで目がさめたとき、そのときの生活の記憶や感情が、おのれの心中にあまりにもいきいきと残っていたため、平常の人間の生活に戻ることがなかなかできなかったということである。最後にわたくしは、いろいろな蝶は、皇帝の従者たちの霊魂であると、中国のある時代に書かれた公文書の原典を知りたい。
 蝶に関する日本の文芸作品は、若干の詩歌を除けば、その多くは中国に由来するもののようである。日本の美術や歌謡、また習俗の中に、あれほど楽しげに表現されている、この主題に関する古くからの民族的な美意識も、はじめは中国の教えに啓発されたかもしれない。日本の詩人や画家たちが、その俳号や雅号、すなわち職業上の呼び名に、蝶夢、一蝶というような名前をあれほどたくさん使っているのは、中国にその先例があったとすれば、確かに説明がつく。
(中略)蝶に関する日本人の奇怪な信仰のうちには、またその源を中国に発しているものがあるらしい、ということは、当然考えられる。もっともそうした信仰は、あるいは中国そのものよりも、さらに古いのかもしれない。その中で最も興味深いのは、生きている人間の魂が、蝶に姿をかえてさまよいあるくことがあるという信仰であろう。
----------(引用終わり)---------

特に、小泉八雲は「蝶」と「魂」について注目しています。

キューピッドとプシュケ。
これ、ギリシャ神話の「蝶」と「魂」の象徴・プシュケ(Psyche)の話に非常に近いという印象を受けたからだと思われます。なぜ同じような話が東洋にあるのか?と、興味をそそられたんでしょう。

参照:ヴァーチャル絵画館 エロス(クピド、キューピット)とプシュケ(サイキ)
http://art.pro.tok2.com/Greek/CupidPsyche/ErosPsyche.htm

ちなみに、「蝶は死者の魂の化身」というような考えは、アメリカ・インディアンの神話にもありまして、日本でも、沖縄に今でも残っています。不思議なんですけど、世界各地にあるんです。

もう一つ、ハーンの視点で面白いと思うのは、日本の俳号や雅号に「蝶」のつく人物が多いというところを見抜いているところです。ただし、さすがのラフカディオ・ハーンも気付かなかったようですが、

芭蕉。
松尾芭蕉の別号「栩々斎(くくさい)」は、

Zhuangzi
『昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也。』(「荘子」斉物論 第二)
→むかし、莊周という人が胡蝶になる夢を見た。ひらひらゆらゆらと、胡蝶となって空を舞っていた。

の、栩栩(くく)です。「ひらひら」です。クオリアですよ。

・・・そして、ハーンは「蝶」を題材にした俳句を、まるで標本を集めるかのようにならべていきます(英訳つきで)。

脱ぎかくる 羽織すがたの 胡蝶かな   乙州
鳥さしの 竿の邪魔する 胡蝶かな     一茶
釣鐘に とまりて眠る  胡蝶かな     蕪村
寝るうちも 遊ぶ夢をや 草の蝶      護物
起きよ起きよ 我が友にせん 寝る胡蝶  芭蕉
籠の鳥 蝶を羨む 目つきかな       一茶
蝶とんで 風なき日とも 見えざりき     暁台
落下枝に かへると見れば 胡蝶かな   守武
散る花に 軽さ争ふ 胡蝶かな       春海
蝶々や 女の足の 後や先         素園
蝶々や 花ぬすびとを つけて行く     丁壽
秋の蝶 友なければや 人につく      可都里
追はれても 急がぬふりの 胡蝶かな   我楽
蝶は皆 十七八の 姿かな          三津人
蝶とぶや この世のうらみ なきように
蝶とぶや この世に望み ないように    一茶
睦まじや 生れかはらば 野辺の蝶     一茶
撫子に 蝶々白し 誰の魂          子規
一日の 妻と見えけり 蝶二つ       蓼太
来ては舞ふ 二人静の 胡蝶かな      月化
蝶を追ふ 心持ちたし いつまでも     杉長

・・・ま、蝶というのは荘子の代名詞ですから。
最低でも半分は荘子へのオマージュです。

今日はこの辺で。


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